主張・コラム 「歴史随想」

鹿児島市の多賀山公園から錦江湾を見守る東郷平八郎像

第5回見事に捉え描いたすがすがしい日本人

南薩山川の坂の上の雲

日本の海軍史を知るにあたって、欠かせない名著といわれる1冊が、伊藤正徳氏の「大海軍を想う――その興亡と遺産」(光人社NF文庫)である。

伊藤氏は福澤諭吉が創刊した「時事新報」に在籍、大正末年、「海軍生みの親」ともいうべき山本権兵衛に3度にわたりインタビューしたと自ら記していることでもわかるように、戦前・戦中をとおして大軍事・外交記者の名をほしいままにした人である。

伊藤氏は、日本海海戦、ひいては日露戦争を「正義の戦い」と位置づけ、激動の明治・大正・昭和期を生き抜いてきた人らしく、次のように熱く記している。

「(日清戦争後の三国干渉から)三年もへないのに、露国(後ソ連)が突如として旅順口と大連とを租借した(中略)名は租借、じつは永久占領である。東洋永遠の平和を害するといって、日本の領有抛棄を強要(名は勧告)したその舌の根のかわかぬ間に、恬としてこれを奪うの奸佞と野望とにたいし、これを憤らない国民があったとすれば、その国民はすでに亡びていたであろう」

そのうえで、伊藤氏は「全国民が(中略)三度の飯を二度にしてまでも、『遼東還付』――旅順・大連を奪い返されたこと――の怨みに酬いる義憤にふるいたったのである」と言い切っている。

中国(当時は清朝)や中国人の立場はどうなるのかという今日的論議は横に措くとして、帝国主義全盛の当時、ロシアが満州から遼東半島、さらに朝鮮半島へと膨張政策を重戦車のように追求していたことは否定できない歴史的事実である。

否、スターリンの時代から今日に至るも、領土に関する貪欲さはロシアの性癖といってよいかもしれない。このロシアの旅順・大連占領は朝鮮半島へのロシアの勢力拡大を意味し、同時にそれは地政学的にみて日本にとり国家存亡の危機をも意味した。

 しかし当時の日本は、日清戦争の勝利により世界の三流、あるいは四流国家から、伊藤氏が書くようにようやく「二流国家のどん尻にくわわったばかり」である。

一方、ロシアは「大鯨」イギリスに対し、「北欧の大熊」に比せられる世界で一、二を争う大国であり、彼我の国力、軍事力には雲泥の差があった。強大な幕府権力に庇護される吉良上野介を討ち、怨みに酬いんと辛苦する播州浅野浪人の立場に、そのころの日本はあった。少なくとも多くの国民はそう思っていたといってよいかもしれない。

それだからこそ、全国民が三度の飯を二度にして、軍備拡張に協力したのであると、伊藤氏は記す。

しかも伊藤氏によれば、昭和の戦争と大いに異なり、天皇は最後の段階で今一度の和平交渉を命じ、軍もまた猪突することなく国民のための軍でありつづけ、国民もまたよく軍と協働した。

『坂の上の雲』と、司馬遼太郎氏がタイトルとして見事に切り取ったように、明治維新から日露戦争に至る過程には、上り詰めていく時代の日本と日本人のすがすがしい姿があった。(続く)



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