主張・コラム 「余暇」

高山市国府町の高齢者の皆さんから請われ、寸暇を惜しんで草刈に励む芸術家・弓削さん

第1回 いかに遊ぶか、生きるか!

07年冬、飛騨高山の弓削夫妻アトリエで陶芸教室と燻製教室を体験した団塊世代・獅子の会一行

 遊び嫌いの皆さん! 仕事が生き甲斐の皆さん! さぁ停年後は「毎日が日曜日」になりますよ!

定刻に起きても仕事はなし、肩書きなし、会社もなし、無いナイ尽くしです。 有るのは、嫌でも、たっぷりの時間です。

さぁどうしますか?

「萬歳!今日から遊ぶぞ!」と、待ってましたとばかりに「遊び行動」に走る人は少ない方で、「どうしようか?」と、《遊び、遊ぶことに悩む》といった方々が急増します。

そうならないように、「停年を迎えてから考えるのでは遅いのですよ」と、機会ある毎に呼びかけては来ました。しかし、やはり実感の伴わないことは行動が鈍りがちです。

私の余暇生活社会人講座受講者にあっても、結局定年後になってあせった方もありました。 こうした中で一番厄介な方というのは、「根っからの仕事人間」、「遊び、遊ぶことが出来ない」タイプです。

現代日本人は概して仕事人間です。仕事をしないと落ち着かない、給料が安くても仕事があればやる、日曜日でも働きたい、などの「仕事讃美」です。

こういう人に限って、一人で生きて来たようなことを言い、仕事によって失ったものがあることを考えもしないのです。 でも、こういう人にも、遮断機が下りるように「停年」(定年)が確実に来るのです。

これまで停年者が「遊べない」ことの原因の第一が、「遊びへの(遊ぶことへの)罪悪感」だとされてきましたが、しかし、それ以前に「仕事讃美」の反省、そして撤回こそ最も必要なのです。

今や、人生80年時代を迎え、人間として、人間らしく生きることを真剣に考えた場合に、「遊び」の大切さもようやく理解されるようになって来ました。

私が訪ねたドイツ、カナダ、アメリカ、ニュージーランドの同世代の人々は、「遊ぶこと」を無視する人は一人も居ませんでした。

誰しも「何のために働くか」の問いに、「遊ぶため」と明快な答えがありました。仕事で失ったものを取り戻す家族旅行、友達とのつき合い、ボランティアを大切にして、そのために大いに稼ぐのだ、との回答でした。

そういった「遊び」を大切にする人々にとっては、日本の「過労死」など信じられないことなのです。それは一種の「自己虐待」であり、「それって人間のすること」って訳です。

残された時間は、本音で生きる「遊び力」を発揮したいと思いませんか。

そのためにも、自己実現への生きがい探しをしてみませんか。(続く)



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