元々南さんは、中央大学商学部を卒業後、サラリーマンとして会社を8つくらい転々とした挙句、宅建ブームで仲間と会社を始め、挫折したこともあったと言うが、なぜ、当時の地元の難問中の難問であった「厚生市場」の再興に全てを捧げるようになったのか、その契機を尋ねてみた。
「世に言う、脱サラという言葉がありますが、私は脱落サラリーマンの脱サラのほうでした。自らが何をやりたいのかを見つけられず、自らが居る場所ばかりを見てしまって、真の自分のやるべき目標が見つけられませんでした。親元で青果商を手伝いながらとことん放蕩を繰り返すどん底の最中、ようやく辿りついたのが青果業組合の青年部の仲間との心底の付き合いと、地元の消防団で活動し始めたことでした。このことが、自分の人生の大きな転機となったと思っています」
消防団などの活動は、無償の奉仕、ボランティア精神そのもの。その命を懸けた無償のボランティア精神の素晴らしさに心を動かされ、「人は自分を必要とするんだ!」ということが分かった、40歳過ぎに自らの人生が変わった、そこが本当の自分らしい人生の始まりだったと、南さんは述懐する。
それ以来、「私に出来るものは、私にしか来ない」「私に出来ないこと、出来ない相談は、私には来ないんだ」「本当に出来ないものは、はっきり最初から断ればいい」「人からお願いされて出来ることは、何でも引き受けてみよう!」と決意し、「依頼されたら、まずは自らが出来ることを引き受けてみることから始めよう」と行動するようになった。難易度超ウルトラC級案件「厚生市場再開発事業」への挑戦も、そうして引き受け、始まったのだと、南さんは語る。
「人のために尽くすことの素晴らしさを、また、地域社会への奉仕、ボランティアの中で人の命を助けることの素晴らしさを、青果部青年部と地元消防団の活動から知りました」「人のために心底尽くすことで、自らが精神的に少しづつ高められていく」「人のために尽くすことの楽しさを覚えたら、連鎖反応で人はどんどん相乗効果を高め、さらに人に尽くすようになるもの」など、南さんの様々な気づきは、再開発事業推進への大きなマグマとなっていった。
そうした折、鹿児島市の行政サイドから「厚生市場再開発」の話が南さんに持ちかけられた。行政担当者が誰に話しても、雲を掴むような途方もない無理な話、手段すら分からない話として耳を貸してくれなかった再開発事業案件に、「出来ることは、何でも請け負う」と決意した南さんが、初めて「ボールをしっかりと受け止めてくれた」のだった。
南さんがどん底の精神状態から這い上がって掴んだ、「人のために、出来ることは、命がけで何でも引き受けてみよう!」の不惑の決意が、私的権利や利害が渦巻く「厚生市場」から、地域のみんなに奉仕でき、地域のみんなが良くなる「フレッセ高見馬場」の中心地域再開発事業推進へと、地域住民や関係者のそれぞれの思惑を、楽しい一つの夢のある目標に結集していく大きな原動力となった。
関係者の悲願と言っても過言ではなかった新生「フレッセ高見馬場」の概容は、①生鮮三品を中心にした「鹿児島の台所」の復活、②居住人口の定着と呼び戻し、③都心部におけるアメニティ空間の整備、という事業コンセプトに基き、商業機能を強化したまちの賑わいの創出、良質な都市型住宅の供給、「まちの顔」としての優れた都市景観の形成を目指した、地上13階建て、高さ約45メートルの高層施設だ。
1 階の商業施設は、高級スーパー「フレッシュアリーナ城山ストア」をコの字に囲む形で、生鮮食品を中心とした13の専門店舗が並ぶ。2階から13階までは、1Kから5LDKまでの141戸の住居用マンションで、2階部分に小規模住宅、3階~13階に中・大規模住宅を備えている。駐車場も2種類、立体式住居用134台分、来客店舗用26台分があり、来客用駐車場の利用は40分間は無料となっている。
高層施設の造りも堅牢で、発売当時は、中・大規模住居で3000万円から4000万円したが、わずか1週間で完売。現在も満室の状況だと言う。周辺地域も新築マンション建設ラッシュで、資産価値はますます上昇傾向にあると、南さんは言う。
「フレッセ高見馬場」は、鹿児島市の市電がすべて、「フレッセ高見馬場」近くの高見馬場交差点を経由する関係上、広域の天文館エリアとして、昔からどんな貴重な旬のものでも「厚生市場」に行けば必ずあるという、絶対的な市民の信頼を勝ち得てきており、今後、新生「フレッセ厚生市場」も、「鹿児島市民の台所」「天文館の台所」としての役割をしっかりと担い、中心市街地再開発事業のモデル地区として、全国の注目を浴びることになるだろう。