主張・コラム 「歴史随想」

鹿児島市の多賀山公園から錦江湾を見守る東郷平八郎像

第1回 『坂の上の雲』で書けなかったこと

鹿児島市多賀山公園にある日露海戦碑 司馬遼太郎さんの代表的歴史小説『坂の上の雲』がテレビドラマ化されて、再来年秋から3年間かけてNHKで放送されることが本決まりになった。主要キャストも決まり、この秋から撮影が開始されるという。

司馬さんは生前、日露戦争は日本の歴史の大きな岐路であったとよく述べられておられた。近代日本の大きな曲がり角をなしたこの大事件の前後を、秋山真之・好古兄弟、真之の幼馴染である正岡子規といった人々を通して描いた大作が『坂の上の雲』である。

高度成長の真っ只中にあって、日本人の多くが次に来る時代が見通せず、漠然とした不安を感じていたという時代背景もあって、刊行されると同時に多くの読者が手に取り、文字通り洛陽の紙価を高めたことはご存知のとおりである。

実は、司馬さんはこの本を書くにあたり、真剣に探しておられた史料があった。当時、防衛庁防衛研究所に在籍していた野村實防衛大学教授(故人)のところにも、旧知ということもありその史料について照会があったと、かつて野村さんは私に話しておられた。

司馬さんが探し求めておられたのは『極秘明治三十七八年海戦史』(略して『極秘海戦史』)という、旧帝国海軍が日露戦争終結後、改めて戦争中の海軍の諸行動を正確に記録、今後の参考資料とするために編纂した大部の史料集であった。

野村さんによれば、司馬さんが『極秘海戦史』を捜しておられた当時、この史料は戦史研究に当たっているごくわずかな人たちの間でこそ存在が知られていたが、誰も実物を見たものがいないという、まさに幻の戦史だった。

「『極秘海戦史』に関して尋ねられたとき、よくそこまで辿りつけたものだと、資料収集にかける司馬さんの執念に感心したものです。司馬さんは、そのときすでに一部をお持ちだというような話をされていました。しかし私を含めて『極秘海戦史』の全容を見たものも、そのありかを知るものも、当時は一人もいなかったのです」

旧海軍と陸軍は戦いの終結後、それぞれ日清戦争、日露戦争に関する史料集を刊行している。

日露戦争については、たとえば海軍で見ると明治42(1909)年5月から43年12月にかけて全4巻の『明治三十七八年海戦史』を、さらに国防の危機が叫ばれた昭和9(1934)年8月から9月にかけて全2巻の『明治三十七八年海戦史』を、そして翌10年1月には全1巻の『日本海大海戦史』を刊行している。

しかし、これらの資料集はいずれも一般向けに作られたものであって、野村さんによれば「作戦の経過を中心に、『極秘海戦史』から当たり障りのない箇所だけを抜き出し編纂したもの」にすぎないという。底本である、『極秘海戦史』は杳として姿をくらましたままであった。

司馬さんは、『極秘海戦史』なしに『坂の上の雲』を書き上げる以外なかったのである。(続く)



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