司馬遼太郎さんの力作『坂の上の雲』は、昭和46(1971)年に文藝春秋社から刊行され、ベストセラー街道を驀進することとなった。
しかし、この作品を書くために司馬さんが探し求めつづけた『極秘明治三十七八年海戦史』(略して『極秘海戦史』)はついにこの時点までには、見つからなかった。
戦前の海軍の機密文書の区分は、軍機を最高度にして、以下軍極秘、極秘、秘、部外秘の順になっていた。たとえば敵に包囲され、敗北必至のときには、これら機密文書は焼いてしまう決まりになっていた。極秘以上については、確実にそれが実行されたといわれている。
では、『極秘海戦史』の場合は、どうだったのだろうか。
『極秘海戦史』は、旧海軍が日清戦争における戦史編纂の経験を生かし、開戦前から周到な計画を立て、戦史編纂の準備を進めていたもので、戦時中から十分な資料を収集・整理し、戦争が終結して編纂時期が来たなら、一気にこれを完成させる意図を有していたという。
事実、海軍軍令部は日露講和条約調印のわずか3ヵ月後にあたる明治38(1905)年12月から同44年までに、全150巻にも及ぶこの『極秘海戦史』を編纂し終えたのである。
私は野村實防衛大学教授(故人)に一部のコピーを見せていただいたのだが、ある部分は手書きになっていた。
当時、野村さんが「この『極秘海戦史』は極秘とありますから、配られたところは海軍部内中心にごく限られたところだったと思います。しかしなかでも秘密にしておきたい部分は手書きになっており、その手書き部分が挿入された完全なものは、多分数セットしか作られなかっただろうと思われます」と語っておられたのを記憶している。
昭和20(1945)年8月、日本は連合軍の前に敗北し、機密文書に属する『極秘海戦史』はすべて焼却処分されたものと考えられる。だが、1セットのみ奇跡的に焼却されもせず、また占領軍により接収されることもなく生き残っていた。
海軍より明治天皇に奉呈された150巻がそれで、皇居の奥深く、人の目に触れることもなく長らく眠っていたのである。
戦後30年を経て、宮内庁より旧陸海軍に関する資料類が防衛庁に移管されることになり、多くが防衛研究所に所蔵されることになった。
かつて海軍に在籍、敗戦時は海軍兵学校の教官であり、戦後長らく海軍史、軍事外交史の研究を続けてこられた野村さんは、たまたまこのとき防衛研究所に在籍しており、宮内庁から移管された資料類の膨大なリストのなかから、久しく探し求めてきた『極秘明治三十七八年海戦史』という12文字を幸運にも発見したのである。
沈着冷静な野村さんだが、このときばかりは胸の高まりを抑え切れなかったと、のちに述懐されておられる。(続く)