『坂の上の雲』(文春文庫)において、日本海海戦の経緯は最終の第8巻において取り扱われている。
解説を担当された島田謹二氏(東北大学・東京大学教授)は、「この(日露)戦争の大団円は陸戦によってつけられず、主人公の一人秋山真之が花形の立役者になって脚光を浴びる1905年5月27日の日本海海戦によって一挙に可能になった。そこが中心部の山場である」と記し、そのうえでこの作品を、比較文学の大家にしてはいささか大げさな表現を用いて、以下のように高評価し筆をおいている。
「この物語は散文で語った一曲の大叙事詩なのである。『平家物語』以来、久しく耳にすることのできなかった諸行無常の哀調を、華やかな勝利のうしろにどこかでしみじみときかせている。日本人が胸の奥に一様に隠し持つ一ばん深い基調音を、低音でしのび鳴らしながら、読者の心をえもいえぬ感動へと導いていく。『坂の上の雲』は(中略)ただ一部に偏したせまい範囲の文芸の愛好者だけに訴えるのではない。日本人一般の各層にひろく、ふかく、ながく読まれ、聴かれ、味わわれる大作を、司馬遼太郎は、海にとりかこまれたこの国土に暮らすわが民族のために残してくれた。何という偉業だろう」
もっともその一方で、島田氏は同じ解説文の中でこの作品の多少の瑕疵に関して筆をさき、まずそのひとつを次のように記している。
「(この作品では)ただ将器と謀才とを何人かの将士の中に識別する時、わかりやすく善玉と悪玉とを説きわけすぎた点がありはしなかったか。広い意味の小説だから、無理はないと思うが、それにしてもそこに多少のひっかかりを感じとる読者がいないわけではなかろう」
この指摘は、他の司馬作品においてもしばしばなされる点で、「講談小説の世界から作家生活をスタートさせた司馬さんの抜きがたい癖としか言いようがない。本人も分かっておられたようですが」と語る文芸編集者も少なくない。
島田氏が、具体的に誰の描写に関して「将器と謀才とを何人かの将士の中に識別する時、わかりやすく善玉と悪玉とを説きわけすぎた」と認識したのかは、この文章だけでは定かではない。
しかし島田が英文学者としてだけでなく、『アメリカにおける秋山真之』『ロシア戦争前夜の秋山真之』といった優れた人物評伝を書いている評伝作家だけに、世に言われている秋山像、あるいは東郷像をそのまま受け入れた司馬作品に、研究者、あるいは評伝作家として多少の認識のずれ、感覚のずれを感じたのではないかと想像したりもするのである。
とはいえ、島田もまた野村教授が明らかにした「日本海海戦の真実」を知りえなかったことは言うまでもない。(続く)