仮に日本が、ロシアに戦いを挑まなければどうなっていただろうか。
司馬遼太郎氏は『坂の上の雲 七』(文春文庫)において、ロシア軍の総司令官クロパトキンの想念を描く形で、こう記している。
「(前略)彼がおもったのは、満州という土地についてであった。皇帝側近の策謀家たちが、――満州こそ、東洋における乳と蜜の流るる地である。とささやきつづけ、さらに鴨緑江の山林地帯の材木と、朝鮮南岸の港がいかに大きな幸福をロシアにもたらすかということを教えて今世紀初頭における最大の規模をもった侵略を開始した(以下略)」
クロパトキン自身は、欧州における兵力バランスが崩れることを懸念、アジアでの大規模な軍事行動に消極的であったが、日本について(特に陸戦について)どう考えていたかというと、司馬氏は前文に続く形でこう書いている。
「当時クロパトキンは日本の戦力というものを軽視しきっていたし、たとえ日本と戦ったところでこれを鎧袖一触で粉砕できるとおもっていた(以下略)」
対して、日本側の対ロシア戦への認識はどうだったか。これについて、司馬氏は満州軍総参謀長児玉源太郎にこう語らせている。
「ロシアに対する勝ち目は、ふつうにやって四分六分というところである。よくやって五分々々、よほど作戦をうまくやれば六分四分」
仮に満州において日本軍が敗れれば、満州はもとより朝鮮半島までロシアの占領するところになり、日本海はロシアの内海と化してしまう。貪欲なロシアは、それにとどまらず次に幕末以来狙いをさだめてきた対馬を奪り、ついで博多か長崎をロシアの租借地にしようと動くに違いなかった。当時の多くの日本人はそうみていた。
日本人だけでなく、例えばイギリスが明治35(1902)年東洋の弱小国日本と同盟を結んだこと一点をとってみても、何とか東アジアにおけるロシアの南下を防ぎたい、そのためには司馬氏流の表現を借りると、驀進してくる機関車の前に石を持って飛び込むようなものだが、同盟国日本を飛び込ませようとしたのである。
勝ち目がそうあるとは、イギリスももちろん思っていなかった。イギリスにとり、機関車は脱線するし、人間はくだけちる、それで十分だったのである。帝国主義時代の、国際政治のリアリズムである。
だが予想に反して日本軍は旅順を落とし、ロシア軍をひた押しに北へ押しやり、ついに直隷平野の最重要拠点奉天陥落にまで持ち込んだ。児玉の言う「六分四分」の線に持ち込んだのである。
だがこの時点、明治38(1905)年3月において、日本の国力は戦争を持続するには不可能なほど疲弊の極に達しつつあった。
日露戦争は、まさに日本と日本人にとり、生存と将来とを賭けた大ドラマだった。『坂の上の雲』が読者の胸を打ち震わせるのも、また当然というべきであろう。(続く)