日本海海戦の直前、ロシア陸軍がクロパトキンという宮廷政治には長けていたが実戦では必ずしも有能とはいえない総司令官に率いられていた幸運もあって、日本陸軍は望外の「六分四分」の優位を得た。
しかしロシアは大国である。数ヶ月もすれば、ヨーロッパ地域からの兵員移送により、陸戦における優位を「四分六分」へと逆転することは、さほど難しいことではなかった。しかも日本にはそれに対抗する余力はすでにないのである。長期戦は日本の望むところではなかった。
日露開戦2年前の明治35(1902)年の第37議会における、尾崎行雄の演説によると、当時の日本の歳計(歳入・歳出の合計)は2億5000万円、対してロシアのそれは20億円と日本の8倍に達していた。彼我の国力の差は埋めようもなかった。
そうした状況下、バルト海リバウ軍港を根拠地とするロシア海軍の虎の子バルチック艦隊が、大西洋、インド洋を経て、極東ウラジオストックへと向かいつつあった。開戦直前における、日本とロシアの海軍力は、以前紹介した伊藤正徳氏の著書『大海軍を想う』によれば、次のようのものであった。
「連合艦隊は排水量合計二十六万余トン、日清戦争時に比して四倍であるが、戦闘力は四十倍というよりは、百倍といっても誇張ではなかった。主力戦艦六隻、同重巡六隻は、ことごとく世界一流の新鋭艦であり、八隻の軽巡は『吉野』級三隻以外は新規のものであった。とくに十九隻の駆逐艦と十二隻の水雷艇は、ことごとく艦齢第一期以内の働きざかりであった」
「が、敵も、相当の強者であった。その兵力量は恐るべきものがあった。(中略)もしも、太平洋、バルチック、黒海に分かれていた艦隊を統合するならば、排水量合計五十一万余トン、戦艦十二隻、重巡十隻をもって、日本を粉砕するであろう。その太平洋にあって東郷に直面した勢力だけでも、ほぼ対等に近かった」
伊藤氏は記す。「極東二十万トンの軍艦は、ことごとく北欧から回航されたものだ。しからば残る三十万トンはいつ回航されてくるのであろうか」。このふたつの艦隊といかに戦うかが、開戦前、東郷に課せられた戦略上の決定的問題であった。
バルチック艦隊が日本近海に姿をあらわし、両艦隊が合流する前にウラジオストックと旅順を根拠地とする太平洋艦隊を壊滅せしめ、そのうえでバルチック艦隊を撃滅する以外に連合艦隊の勝ち目はないし、日本の最終的勝利もありえなかった。バルチック艦隊はすでに1904年10月10日、リバウ軍港を出撃していた。
いま連合艦隊は苦闘の末に太平洋艦隊を撃破し、陸では「六分四分」の優位で戦を展開している。とはいえ北欧からやって来る巨大な艦隊のうち何隻かがウラジオに入港し、朝鮮海峡を跳梁し日本の補給戦を混乱させれば、すでに戦線が伸びきり新たな戦力投入も難しくなっている日本陸軍は、態勢を立て直したロシア陸軍に完膚なきまでの敗北をこうむることは誰の目から見ても明らかだった。
『坂の上の雲』は、いよいよクライマックスへと向かい進んでいく。(続く)