主張・コラム 「余暇」

高山市国府町の高齢者の皆さんから請われ、寸暇を惜しんで草刈に励む芸術家・弓削さん

第6回 人のお世話になる前に、人のお世話を

埼玉県深谷市(旧岡部町)中宿歴史公園の蓮 

 あなたの立脚点である居住地についての、原点把握はいかがでしたか。意外とご存知ないことが多かったのではないでしょうか。

さて、少々前になりますが、気になることで、「過労死に、労災申請」の文字が、新聞紙上に見られました。実に悲惨な出来事です。

「過労死」を意味する言葉は、他の国には存在しないそうで、あえて表記すると「karousi」が採用されています。あまりありがたくない国際語になったわけです。特に勤勉な国民性で知られるドイツでは、過労死は全く不可解な日本的現象として捉えられています。

一層残念に思えるのは、不幸にも過労が原因で亡くなられた方々は責任感が強く、使命感に燃えた好人物が多いことです。それだけに実に惜しいことです。ドイツなどの国々から批判されるのは過労死が、まったく人間とか人間性を無視した行為であり、それを容認する社会があることへの驚きなのです。

我々日本人は、生きるために、働け働けという社会を形成して来ました。しかしこの道は、人間性とか、人間らしい生活を求める道からは大分かけ離れたコースをたどったようです。暇している人こそ自分の時間を持って居る人であるハズなのですが、現実は、暇は悪として排除されて来ました。

誤解のないように付け加えておくと、暇している人・自分の時間を持っている人の前提は、大切な「暇」・かけがえの無い「自由時間」という自覚をもっていることにあります。

さらにこのことに関連して、この過労死とは全く対照的に、仕事の必要もなく、何もしないままに時間を浪費して自滅の道を歩む人が居ます。大切な「暇」・かけがえの無い「自由時間」という自覚がないままに過ごす人のことで、これも近年の高齢化とともに浮上した厄介な問題なのです。

さぁ定年だ、ゆっくりやりたいことを遣らせてくれ、と好きなことは遣るが嫌なことは一切しない、とか、自堕落な時間を過ごし、自分の身の回りのことを一切しない人がいたら、このことも問題で、その人の自業自得として、済むことではないのです。

私たちは、一人では生きて行けないわけで、何もしないままに時間を浪費していると、自滅ならぬ「介護」という人の手を煩わすことになるのは目に見えています。

自堕落に定年後を生きることは、家族への精神的、肉体的、経済的、三重、四重の負担を強いることにもなります。そうならないためには、これまでの人生で学んだ知恵を転化させなければなりません。

さぁ、あなたはどうしますか。国もこうしたことを見込んで、生涯学習を政策として推進しています。学校や社会の中で意図的、組織的な学習活動として行われるのは勿論、人々のスポーツ活動、文化活動、趣味、レクリエーション活動、ボランティア活動などの中でも行われています。

各地にコミュニケーションセンターがあることでしょうし、各種講習会、講演会、催事など等、こうしたことは、居住地原点把握の課題を果たしてくださった方々には、十分に御理解いただけたことと思います。

関東大震災復興事業をはじめ壮大な構想を提唱し実行した後藤新平の名言に「人のお世話にならぬよう。人のお世話をするよう。そして、報いを求めぬよう」という言葉があります。私にとってはボーイスカウト時代に教わった懐かしい言葉です。

まさに、今必要なのは、この「人のお世話にならぬよう。人のお世話をするよう。そして、報いを求めぬよう」という心構えと、そのために何をすべきか、実行にむけて、一歩踏み出す勇気こそ必要なのではないでしょうか。(続く)

 


 




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