遊び嫌いの皆さん! 仕事が生き甲斐の皆さん! さぁ停年後は「毎日が日曜日」になりますよ!
定刻に起きても仕事はなし、肩書きなし、会社もなし、無いナイ尽くしです。 有るのは、嫌でも、たっぷりの時間です。
さぁどうしますか?
「萬歳!今日から遊ぶぞ!」と、待ってましたとばかりに「遊び行動」に走る人は少ない方で、「どうしようか?」と、《遊び、遊ぶことに悩む》といった方々が急増します。
そうならないように、「停年を迎えてから考えるのでは遅いのですよ」と、機会ある毎に呼びかけては来ました。しかし、やはり実感の伴わないことは行動が鈍りがちです。
私の余暇生活社会人講座受講者にあっても、結局定年後になってあせった方もありました。 こうした中で一番厄介な方というのは、「根っからの仕事人間」、「遊び、遊ぶことが出来ない」タイプです。
現代日本人は概して仕事人間です。仕事をしないと落ち着かない、給料が安くても仕事があればやる、日曜日でも働きたい、などの「仕事讃美」です。
こういう人に限って、一人で生きて来たようなことを言い、仕事によって失ったものがあることを考えもしないのです。 でも、こういう人にも、遮断機が下りるように「停年」(定年)が確実に来るのです。
これまで停年者が「遊べない」ことの原因の第一が、「遊びへの(遊ぶことへの)罪悪感」だとされてきましたが、しかし、それ以前に「仕事讃美」の反省、そして撤回こそ最も必要なのです。
今や、人生80年時代を迎え、人間として、人間らしく生きることを真剣に考えた場合に、「遊び」の大切さもようやく理解されるようになって来ました。
私が訪ねたドイツ、カナダ、アメリカ、ニュージーランドの同世代の人々は、「遊ぶこと」を無視する人は一人も居ませんでした。
誰しも「何のために働くか」の問いに、「遊ぶため」と明快な答えがありました。仕事で失ったものを取り戻す家族旅行、友達とのつき合い、ボランティアを大切にして、そのために大いに稼ぐのだ、との回答でした。
そういった「遊び」を大切にする人々にとっては、日本の「過労死」など信じられないことなのです。それは一種の「自己虐待」であり、「それって人間のすること」って訳です。
残された時間は、本音で生きる「遊び力」を発揮したいと思いませんか。
そのためにも、自己実現への生きがい探しをしてみませんか。(続く)